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演劇で世の中変えられるか、若者の未来をドー考えるか?でもって、温度というかニンゲンの面白さをどーとらえるのか!?
いまや「●×」とでも呼ぶべき権力がこの国の演劇界を、企業や教育界を巻き込んで「新しい公共」=《表現(教育:コミュニケーション)」という平和的無血カクメイ》で席巻し、文化芸術立国という戦略であっという間に「国取り」してしまった。「△△さんの仇は討つ、新国立劇場は潰す!」と豪語していたのにいったい、アレってどーなったんだ?
《演劇》という「枠」を軽やかに超えて「●×」が提出した《表現》というカクメイは「新しい公共」という最もこの時代にふさわしい普遍的で正統なる戦略である。それでいて全て[効率]で語られるからわかりやすい。正論であり実に「わかりやすい」から、誰もがグーのねも出ないし、私のようなひねくれモノのビンボー人のゴミタメは結局「劇場法」なんかどーでもいいや!となってしまう。が、それじゃダメなのである。
《表現(教育:コミュニケーション)という平和的無血カクメイ》ではなく、《21世紀の歌舞伎モノの生き様》として《劇場》をドーとらえるのか?百人の支配されない《21世紀の歌舞伎モノ》の《劇場》を探しに日本中でわたしは「野たれ死にへの幻視行」を続けようと想っている。
劇場を捨てよ!!と、ついアジテートしたくなる昨今である。《劇場》とはヒトとヒトを結ぶつける《場》であって、そこが《劇場》である。いや「ある」ではなく「そこが《劇場》となる」。これが劇場の基本、管理される場所ではなくヒトが自由に《出会う》場所、自由の砦そこが《劇場》である。
かくして、天下りがなくなって?「演劇天上がり(「痴」的エリート)」が地域にじゃぶじゃぶ送り出される時代がやって来た。芝居やニンゲンのことなんか何にもわからないアートマネージャーって「●×」のロボットが。それも、ぜーんぶ「人材育成」という名のロボット養成が国家の助成金付きと来ている、いやはや「国家と大学と企業」三位一体となった観光・芸術=劇場立国。ひょとしたらこれが【劇場法】の内実?と思える進行状況である。
それでいて、まだ「草案」さえ提出されていない。早く出して討論しようぜ!着々とアートマネージャーや芸術監督や地域プロデューサーや教育コミュニケション養成プログラムといったものを「国の助成金」で「自分たちで勝手に進めて育成事業をやっている現状!これじゃ、国民の目にさらされ、討論の機会さえない、法律であり環境基盤整備である。
合意形成にはもっと時間をかけるべきだという事をとにかく自覚して欲しい。推進する「●×」側や具体的な推進母体であった「芸団協」も現在の演劇界のこの微妙を通り過ぎた違和感=温度差を埋める努力をもっとすべきなのである。そして、今まで日本の舞台芸術を育て上げて来たスズナリや紀伊国屋劇場、タイ二ィ・アリスといった多くの民間劇場にとって絶対脅威になってはならない。いま、大阪の精華小劇場の危機が伝えられる。ホントーはこっちのほうが問題なのだ!!大阪こそ何とかしてくれよ、である。
そして、イマまで日本の現代演劇は民間の劇団(新劇・アングラ・小劇場)・芸術団体(鑑賞会を含む)が育て、多くの人々の生活・文化基盤を支え、その活動を維持・続行してきた民間演劇人が中心に担ってきている。それを全て「劇場に!」はオカシイじゃん!といまこそ、日本中の民間劇団は言うべき時なのである。なぜか、なにかを恐れて口をつぐんでいたら、この怒涛の「全てを劇場へ!カクメイ」はテッテ的に進行(侵攻)する。
これはある意味、民間圧迫である。「文化芸術活動を行う者の自主性を尊重する」(芸術文化振興基本法)ということは民間の芸能・芸術団体の集団活動が軸に据えられている現在の状態は基本的状態なのである。本来、演劇という「固有の意義と価値を有する」(芸術文化振興基本法)モノは世の中の「すきま」にあるモノ、誰でもいられるニンゲンのぬくもりを持った「原っぱ」(金杉忠男)にこそ生まれ・育てられるものなのだ。そこには区別も差別もない。そこを私たちは劇場と呼ぶ。
芸団協のいう「公共施設の管理者が舞台芸術に対して旧態依然とした理解しか持ちえないため起きてきた多くのトラブルが是正され、劇場で働く者の安全と権利が保障されるための」劇場法は勿論大賛成である。問題は「劇場法」に絡めて起こっているその後の芸術文化に対する支援制度のあり方に対する予想を超えた「合意形成なき」侵攻=●×無血革命のことなのだ。
といっても、イマ起こっている現象は、これこそが見事なる《表現》という名の無血革命である。すでに回りは「●×ロボット」の群れ、でもって、次はロボット演劇と来た!!もう、なにをか況や!スゲエ!天晴れ!天晴れ!の世界演劇カクメイ児!それゆけ、やれゆけ、ドンと往け!である。
ケータイさえ持たないわたしなんぞ「つぶやく」暇もなにもない。
かくして私は「●×」を何故か、ほめたりけなしたり、矛盾しているね。昔から私は●×を偉大なる工作者として認めていたし、私と「ちょっと違った」意味でのウンドー家として尊敬もして来たし今も尊敬している。が、この「ちょっとした違い」が、この矛盾が、いくらアタマで判っても「●×カクメイ」の口当たりのよさがイマイチ生理的な違和感なのだろう。
昔、私たちが「夢想」した演劇の未来が「現実」になる、がその「夢想」したものとは明らかに違っている。が、「現実」に沿うカタチは「劇場」でしかないのか?「劇場」(ハコ)でいいのか?という違和感、やっぱり演劇人(ヒト)だろ「劇団」=集団だろ!どーしょーもなく「カネが仇の娑婆世界(鶴屋南北)」にル・サンチマン(怨念)を持つ無名のモノタチの「集まり」それが「劇団」じゃないか!という想いである。
「カネが仇の娑婆世界」の現世の亡者どもが現世の観光・芸術=劇場立国でカネまみれの地獄で踊っている末世の風景である。ニッポンって見事なまでの格差社会主義国?いま、演劇はカネになる。新たなる公務員それが演劇人てか?多くの演劇人が大学教授になっている時代、教え子の就職先、雇用先を考えるのはアタリマエって単純な話??嘘だろう?etc.すべてがカネで費用対効果、効率で語られる時代!そして、結局持っているヤツラ(「痴」的エリート)がドンドン肥え太っていく。
芸術家のセーフティネットの「効率」的な社会環境整備政策はベーシック・イン・カム=基礎所得保障制度の導入だという考え方も一部にある。この際、演劇人の生活基本法にすえるってのはどーだろうか、生涯年収400万以下の私としてはこれで死ぬまで世のため人のために芝居やっていけるんだけど。
ニンゲンどうせカラダひとつで生まれてきたのだ、カラダひとつで集団(芝居)をつくってカラダひとつでアッチへ逝くだけである。所詮、アングラはそいつの生き方=生き様である。47歳でアッチへ逝った寺山さんだったらこの状況をなんていうだろう?、
劇場は人々の遊び場であって、管理され、教育される場では決してない。まして痴的エリート=天上がり権力の出先機関であってはならない。舞台芸術家が安定して、継続して、集団で創作ができる場所がなんで、「劇場でなければならない」の?おかしいじゃん?とにかく、何度でも会って喋るしかない。違いは違い、一緒にできる事は一緒にやる。
シンプルに全てを「劇場」に!ではなく、全てを「劇場」と「劇団」に!だ。
だって、演劇ってひとりじゃなにも出来ないジャン、これだけ個と孤にバラバラにされている時代に、何人も集まって、あーでもない、こーでもないと言い合って喧嘩しながら創り上げる《芝居》ていうホント時間がかかり汗もかくローテクの「非効率な集団による事業」が町のすきまに、まるで病院のように存在しないと息苦しいたらありゃしねえ、じゃん。
私は「日本演劇センター(仮称)」の早期の実現に向けて地域行脚=寺・神社・コミュニティカフェETC.廻りを開始しようと思っている。とにかく、シコシコとヒトとヒトとを《繋げる》だけである。
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「文化芸術は、「それ自体が固有の意義と価値を有する」ことをまず認めている。経済的な豊かさの中にありながら、文化芸術がその役割を果たすことができるような基盤の整備及び環境の形成は十分な状態にあるとはいえない現状は、明らかである。21世紀を迎えた今、これまで培われてきた伝統的な文化芸術を継承し、発展させるとともに、独創性のある新たな文化芸術の創造を促進することは、我々に課された緊要な課題となっている」
「我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である。」 (芸術文化振興基本法)
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